善悪を知る木

原理講論の中の 10 の見出しや段落内に
「善悪を知る木」の記述があります。


001

ここにおいて、我々は、神の救いの摂理の究極的な目的が、地上天国を建設するところにあるという結論を得た。先に、人間が堕落しているという事実と、この堕落が、人間創造以後に起こったことでなければならないという事実を明らかにしたが、今、我々が神の実在を認識した立場から見ると、人間始祖が堕落する以前、創造本然の世界において、神が建設されようとした世界が、いかなるものであったかということに対する答えは、自明だといわなければならない。そのことに関しては、前編第三章において論ずるはずであるが、その世界こそ神の創造目的が成就されるところの地上天国なのである。しかし人間は、堕落することによってこの世界をつくることができず、罪悪世界をつくり、無知に陥ってしまったために、堕落した人間は、長い歴史の期間をかけて、内外両面の真理を探し求め、無知を打開しつつ、善を指向し、絶えず神の創造本然の世界である地上天国を渇望してきたのである。我々は、ここにおいて、人類の歴史は、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるという事実を知った。したがって、その新しい真理は、堕落人間が、その創造本然の人間へと帰っていくことができるように、神が人間をはじめとして、この被造世界を創造されたその目的はいったい何であったかということを教え、復帰過程の途上にある堕落人間の究極的な目的が、いったい何であるかということを知らしめるものでなければならない。また、人間は果たして聖書に書かれているように、文字どおり、善悪を知る木の果を取って食べることによって堕落したのであろうか、それとも、もしそうでないとすれば、堕落の原因はいったいどこにあったのであろうか。完全無欠であるはずの神が、いったいどうして堕落の可能性のある人間を創造され、全知全能の神が、彼らが堕落するということを知っていながら、どうしてそれを食い止めることができなかったのか。また神はなぜその創造の権能によって、一時に罪悪人間を救うことができないのであろうか等々、実に、長い歴史の期間を通じて思索する人々の心を悩ませてきたあらゆる問題が、完全に解かれなければならないのである。

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002

創世記二章17節を見れば、神はアダムとエバに、善悪を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言がある。彼らは、神の警告を聞かないで死ぬこともできるし、あるいはその警告を受け入れて、死なずに済むこともできたことから推察してみるとき、彼らがいまだ未完成期にあったことは確かである。万物世界が六日という期間を経て完成できるように創造されたので、被造物の一つである人間も、やはり、そのような原理を離れて創造される理由はないのである。

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003

今まで人間の中に深く根を下ろし、休むことなく人間を罪悪の道に追いこんできた罪の根がいったい何であるか、この問題を知る者は一人もいなかった。ただキリスト教信徒のみが、聖書を根拠として、人間始祖アダムとエバが善悪を知る木の果を取って食べ、それが罪の根となったということを漠然と信じてきたのである。しかし、善悪を知る木の果が、文字どおり木の果実であると信ずる信徒たちと、聖書の多くの部分がそうであるように、これもまた、あるものに対する象徴、あるいは比喩に違いないと信ずる信徒たちとが、互いにその意見を異にし、それぞれに様々な解釈をしているだけで、今もってなお、これに対する完全な解明がなされていないというのが実情である。

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004

(一)生命の木と善悪を知る木

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005

多くのキリスト教信徒たちは今日に至るまで、アダムとエバが取って食べて堕落したという善悪を知る木の果が、文字どおり何かの木の果実であると信じてきた。しかし、そうであるなら、人間の父母としていまし給う神が、何故その子女たちが取って食べて堕落する可能性のある果実を、このように「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし」くおつくりになり(創三・6)、彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのであろうか。

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006

なぜなら遺伝は、ただその血統を通じてのみなされるからである。ゆえに、ある一人の人間が、何か物を食べたなどということによって、その結果が子孫代々にまで遺伝されるはずはない。ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。アダムとエバは、彼らが善悪の果を取って食べる日には、必ず死ぬであろうと言われたみ言のように、それを食べるときには死ぬということを知っていたはずである。それにもかかわらず彼らはこれを取って食べたのである。飢えてもいなかったアダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神のみ言を犯したとは到底考えられないのである。それゆえに、善悪を知る木の果は何かの物質ではなく、生死にかかわることさえも問題視しないほどの強力な刺激を与えることのできる、他の何物かであるに相違ない。さて、善悪を知る木の果が物質でないとすれば、それは他の何物かを比喩したものであると見なければならない。聖書の多くの主要な部分が、象徴とか比喩でもって記録されていることは事実である。もしそうだとすれば、なぜ善悪の果だけを無理に文字どおりに信じなければならないのであろうか。今日のキリスト教信徒たちは、当然のことながら聖書の文字のみにとらわれた過去の固陋にして慣習的な信仰態度を捨てなければならない。では善悪を知る木の果を比喩であると見るならば、それは果たして何を意味するのであろうか。我々はこれを解明する方法として、創世記二章9節の善悪を知る木と共にエデンの園にあったという生命の木が何であるかをまず調べてみることにしよう。この生命の木が何であるかが明らかになれば、これと共にあったという善悪を知る木が何であるかということも、明確に知られるようになるからである。

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007

(2)善悪を知る木

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008

神はアダムだけを創造したのではなく、その配偶者としてエバを創造された。したがって、エデンの園の中に創造理想を完成した男性を比喩する木があったとすれば、同様に女性を比喩するもう一つの木が、当然存在してしかるべきではなかろうか。これが生命の木と共に生えていたと記録されている(創二・9)善悪を知る木であったのである。したがって、善悪を知る木というその木は、創造理想を完成した女性を象徴するものである。ゆえに、それは完成したエバを例えていった言葉であるということを知ることができるのである。

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009

我々は既に、善悪を知る木が、完成したエバを比喩したものであるという事実を明らかにした。では、善悪の果とは何をいうのであろうか。すなわち、それはエバの愛を意味するのである。果木が、果実によって繁殖するように、エバは、神を中心とするその愛をもって善の子女を繁殖しなければならなかったにもかかわらず、実際には、サタンを中心とする不倫な愛をもって悪の子女を生み殖やしたのである。エバはこのように、その愛をもって善の実を実らせることも、また悪の実を実らせることもできる成長期間を通過して、完成するように創造されていたのであった。それゆえに、その愛を善悪の果といい、また、その人間を善悪を知る木といったのである。

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010

アダムが創造理想を完成した男性、すなわち生命の木となり、エバが創造理想を完成した女性、すなわち善悪を知る木となって、人類の真の父母となったならば、そのときに、神の三大祝福が完成され、地上天国は成就されたはずであった。しかし、彼らが堕落したので、反対に、地上地獄になってしまった。それゆえ、堕落人間を再び生み直してくださるために、イエスは、後のアダム(コリントⅠ一五・45)として、生命の木の使命をもって(黙二二・14)人類の真の父として来られたのである。このように考えてくると、ここに後のエバとして、善悪を知る木の使命をもった人類の真の母が(黙二二・17)、当然いなければならないということになる。これがすなわち、堕落した人間を、再び生んでくださる真の母として来られる聖霊なのである。

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