祝福

原理講論の中の 77 の見出しや段落内に
「祝福」の記述があります。


001

被造物の創造が終わるごとに、神はそれを見て良しとされた、と記録されている創世記のみ言を見れば(創一・4〜31)、神は自ら創造された被造物が、善の対象となることを願われたことが分かる。このように被造物が善の対象になることを願われたのは、神がそれを見て喜ばれるためである。それでは、被造物がいかにすれば、神に一番喜ばれるのであろうか。神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ(創一・28)と言われたのである。この三大祝福のみ言に従って、人間が神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。

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002

それでは、神の三大祝福は、いかにして完成されるのだろうか。それは、創造の根本基台である四位基台が成就された基盤の上でのみ成就されるのである。それゆえに、神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。

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003

四位基台の基盤の上で、三大祝福による天国が実現すれば、これがすなわち、神が喜びを感ずる世界であるということを、既に我々は説明してきた。そこで、これがいかにして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。

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004

神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリントⅠ三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の実体対象となり、したがって、神の実体対象となる。ここで、その心と神は、このような実体対象からくる刺激によって、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるので、喜びに満ちることができるのである。それゆえに、人間が神の第一祝福を完成すれば、それは神の喜びのための善の対象となるのである。このように、個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない。

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005

つぎに、神の第二祝福を成就するためには、神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。このように、神を中心として四位基台をつくった家庭や社会は、個性を完成した人間一人の容貌に似るようになるので、これは、神を中心とした人間の実体対象であり、したがって、また神の実体対象ともなるのである。それゆえに、人間や神は、このような家庭や社会から、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずるようになり、喜びに満ちることができる。したがって、人間が神の第二祝福を完成すれば、それもまた神の喜びのための善の対象となるのである。

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006

そのつぎに、人間が神の第三祝福を完成すれば、それがどうして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。この問題を解明するためには、まず性相と形状とから見た人間と万物世界との関係を知らなければならない。

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007

神の第三祝福は、万物世界に対する人間の主管性の完成を意味する。人間が祝福を成就するためには、神の形象的実体対象である人間と、その象徴的実体対象である万物世界とが、愛と美を授け受けして合性一体化することにより、神を中心とする主管的な四位基台が完成されなければならない(本章第五節(二)③参照)。

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008

既に論じたように、万物世界はどこまでも、人間の性相と形状とを実体として展開したその対象である。それゆえに、神を中心とする人間は、その実体対象である万物世界からくる刺激によって、自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるために、喜ぶことができるのである。そして、神はこのように、人間と万物世界とが合性一体化することによって、神の第三対象である被造世界によって、神自体の本性相と本形状に対する刺激的な感性を相対的に感じて、喜びに浸ることができる。人間がこのような神の第三祝福を完成すれば、それも神の喜びのための、また一つの善の対象となるのである。このように神の創造目的が完成されたならば、罪の影さえも見えない理想世界が地上に実現されたはずであって、このような世界を称して、我々は地上天国という。のちに詳細に説明するが、元来、人間は地上天国で生活して、肉体を脱ぐと同時に、霊界で自動的に天上天国の生活をするように創造されているのである。

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009

例を挙げれば、神を中心として心と体が、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて合性一体化し、個人的な四位基台を造成して、創造目的を完成した個性体となり、神の第一祝福を完成するようになるとき、その個性体、または、そのような個性体をつくるための行為を善という。そして、神を中心としてアダムとエバが、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて夫婦となり、子女を生み殖やして家庭的な四位基台を造成して、創造目的を完成した家庭をつくり、神の第二祝福を完成するようになるとき、その家庭、または、そのような家庭をつくるための行為を善という。また、個性を完成した人間が、ある事物を第二の自我として、その対象の立場に立たしめ、それと合性一体化して神の第三対象をつくり、主管的な四位基台を造成して神の第三祝福を完成するようになるとき、その事物とか、または、その事物をつくるための行為を善という。サタンを中心として四位基台を造成することによって上記のような神の三大祝福に反対の目的を成し遂げる行為、または、その行為の結果を悪というのである。

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010

神は被造世界の創造と、その経綸のために、先に天使を使いとして創造された(ヘブル一・14)。天使はアブラハムに神の重大な祝福のみ言を伝えたのであり(創一八・10)、キリストの受胎に関する消息を伝えたり(マタイ一・20、ルカ一・31)、獄中で鎖につながれていたペテロを解いて、城外に導いたのである(使徒一二・7〜10)。このほかにも、神のみ旨のために天使が活動している例は、聖書の中に、無数に探しだすことができる。それゆえに、黙示録二二章9節では、天使が自分自身を「僕」と言い、またヘブル書一章14節においては、天使を「仕える霊」と記録しているのである。そしてまた、天使は神に頌栄をささげる存在として創造されていたという証拠も、聖書の中に数多く見いだすことができる(黙五・11、黙七・11)。

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011

神は天使世界を創造されてから(創一・26)、ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ一四・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書の例え話(マタイ二〇・1〜15)と同じ立場であったということができる。このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。

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012

それでは、神が人間始祖に、「食うべからず」と言われた信仰のための戒めは、いつまでも必要であったのだろうか。愛を中心として見るとき、神の第二祝福完成は、アダムとエバが、神の愛を中心として夫婦となり、その子女が生み殖えることによって(創一・28)、神の愛による直接的な主管を受けることをいうのである。それゆえに、人間が完成すれば、「食う」のは原理的なものとして、当然許されるように創造されていたのであった。

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013

このように、個性完成して、罪を犯すことができなくなったアダムとエバが、神の祝福なさったみ言どおり(創一・28)、善の子女を繁殖して、罪のない家庭と社会とをつくったならば、これがすなわち、一つの父母を中心とした大家族をもって建設されるところの天国であったはずである。天国はちょうど、個性を完成した一人の人間のような世界である。人間において、その頭脳の縦的な命令により、四肢五体が互いに横的な関係をもって活動するように、その社会も神からの縦的な命令によって、互いに横的な紐帯を結んで生活するようになっているのである。このような社会においては、ある一人の人間が苦痛を受けるとき、それを見つめて共に悲しむ神の心情を、社会全体がそのまま体恤するようになるから、隣人を害するような行為はできなくなるのである。

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014

元来、神は人間を創造されて、三大祝福を与えてくださることを約束なさったので(創一・28)、イザヤ書四六章11節に「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」と言われたように、サタンのために失ったこの祝福を復帰する摂理をなさることによって、その約束のみ旨を成し遂げてこられたのである。マタイ福音書五章48節にイエスが、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と弟子たちに言われたことも、とりもなおさず、創造本然の人間に復帰せよという意味であった。なぜなら、創造本然の人間は、神と一体となることによって神性を帯びるようになるから、創造目的を中心として見るときには、神のように完全になるので、こう言われたのである。

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015

第四に、我々は聖書を中心として、より詳しく、この問題について調べてみることにしよう。人類歴史の目的は、生命の木(創二・9)を中心とするエデンの園を復帰するところにある(前編第二章第一節(一))。ところで、エデンの園とは、アダムとエバが創造された、あの局限地域をいうのではなく、地球全体を意味するのである。もしエデンの園を、人間始祖の創造された、ある限定された地域だけを指していうのだとすれば、地に満ちるほど生めよ殖えよと言われた神の祝福のみ言(創一・28)によって、繁殖するであろう数多くの人類が、いったいどうしたらその狭い所にみな住むことができるのであろうか。

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016

神が、人間始祖に与えられた三大祝福は、人間始祖の犯罪によって、神を中心としては成就されず、サタンを中心として非原理的に成就されたのだということを、我々は既に述べた。ところが、悪によって始められた人類歴史は、事実上、神の復帰摂理歴史であるがゆえに、サタン主権の罪悪世界はメシヤの降臨を転換点として、神を中心として三大祝福が成就される善主権の世界に変えられるようになるのである。

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017

このようなみ言によって、イエスの弟子たちもそうであったが、その後、今日に至るまでの多くの信徒たちは、各々が、自分の当代に、イエスが来られるということを信じていたので、彼らは、常に終末であるという切迫感から逃れることができなかったのである。これは、終末に対する根本的な意義を知らなかったからであった。我々は今ここにおいて、神が復帰摂理の目的として立て、それを成就しようとしてこられた三大祝福が復帰されていく現象を見て、現代がすなわち終末であるということを、立証することができるのである。それゆえにイエスは、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイ二四・32)と、言われたのである。

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018

(一)第一祝福復帰の現象

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019

既に創造原理において論じたように、神がアダムとエバに約束された第一祝福は、彼らが個性を完成することを意味するのである。堕落人間をして、個性完成した創造本然の人間へと復帰してこられた神の摂理が、その最終段階に至っているということは、次のような各種の現象を見ても知ることができる。

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020

第一に、堕落人間の心霊が復帰されていくのを見て、それを知ることができる。人間が完成すれば、完全に神と心情的に一体化し、互いに相通ずるように創造されたということは、既に述べたとおりである。それゆえに、アダムとエバも、不完全な状態ではあったが、神と一問一答した段階から堕落し、その子孫たちは、神を知らないところにまで落ちてしまったのである。このように、堕落してしまった人間が、復帰摂理の時代的な恩恵を受けるようになるに従って、漸次その心霊が復帰されるので、終末に至っては、使徒行伝二章17節に「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは 幻 を見、老人たちは夢を見るであろう」と言われたみ言のように、多くの信徒たちが、神と霊通するようになるのである。そこで、現世に至り、霊通する信徒たちが雨後の竹の子のように現れるのを見れば、現世は終末であるがゆえに、人間が個性を完成し神の第一祝福を復帰することのできる、そのような時代に入っているということを知ることができる。

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021

第二に、堕落人間が、本心の自由を復帰していくという歴史的な帰趨が、これまた、それを示しているのである。人間は堕落によってサタンの主管下におかれ、本心の自由が拘束されるようになったので、神の前に出ていくことのできる自由を失ってしまった。ところが現世に至っては、肉体の命を捨ててまでも、本心の自由を求めようとする心情が高められてくるが、これは、終末になって個性を完成することにより、堕落人間が、サタンに奪われた神の第一祝福を復帰し、神の前に自由に出ていくことのできる時代に入っているからなのである。

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022

実に人間は、堕落することによって、このような価値をみな失ってしまったのである。ところが現代に至り、民主主義思想が高潮して、人々は奴隷解放、黒人解放、弱小民族解放などを主張しながら、人権擁護と男女平等、そして万民平等を叫ぶことによって創造本然の個性の価値を、最高度に追求するようになったのであるが、これはとりもなおさず終末となり、堕落人間が失った神の第一祝福を復帰できる時代に入っているということを実証するものである。

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023

第四に、堕落人間の本性の愛が復帰されていくという事実が、個性を完成していく終末のときの到来を更に証明してくれる。神の創造理想を完成した世界は、完成した一人の人間の姿の世界であって、その世界の人間は、みな神と縦的に一体となっているがゆえに、人間相互間においても横的に一体とならなければならないのである。したがって、この世界はもっぱら、神の愛をもって縦横に結ばれ、一つの体のようにならざるを得ないのである。しかし、人間は堕落によって神との縦的な愛の関係を断たれてしまったので、人間同士の横的な愛も切断され、人類歴史は闘争のもつれによって流れてきた。しかし、現代に至っては博愛主義思想が高潮してくるに従い、人間が漸次、その本性愛を探し求めてきているのを見ても、現代は神の第一祝福を復帰することにより、神の愛を中心として個性を完成することができる終末に入っている、という事実を知ることができるのである。

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024

(二)第二祝福復帰の現象

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025

神の第二祝福は、アダムとエバが真の父母として完成し、善の子女を繁殖することにより、善主権の家庭と、社会と、世界を成就するようになるということを意味する。しかし、アダムとエバは堕落して悪の父母となったので、全人類は悪の子女となり、悪主権に拘束された世界をつくってしまったのである。しかし神は一方に宗教を立てて摂理することにより、内的なサタン分立による心霊復帰の摂理をされ、また、他方においては、闘争と戦争による外的なサタン分立をすることにより、内外両面における主権復帰の摂理をしてこられたのである。このように人類歴史は、内外両面のサタン分立による復帰摂理を通じて、将来の真の親であられるイエスに仕えることのできる子女を探し求めて、神の第二祝福を復帰してきたから、それは宗教を中心とする文化圏の発展史と国家興亡史とに現れた内外両面における神の主権復帰の現象を見ることによって、現世がすなわち終末であるということを知ることができるのである。

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026

我々はまず、文化圏発展史がどういうふうに流れてきて、現代を終末へと導いているのかを明らかにしよう。文化圏発展史に関する問題は、既に幾度か論じてきたが、神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を指向する人間の本心に従って、宗教を立たしめ、その宗教を中心とする文化圏を起こしてこられたのである。それゆえに、歴史上には数多くの文化圏が形成されたのであるが、時代が流れるに従って、これらは互いに融合、あるいは吸収され、現代に至っては、キリスト教を中心とする一つの世界的な文化圏をつくっていく趨勢を見せているのである。このような歴史的な趨勢は、キリスト教の中心であるイエスを中心として、すべての民族が、同じ兄弟の立場に立つようになるということによって、神の第二祝福が復帰されつつあるという事実を示しているのである。

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027

キリスト教が他の宗教と異なるところは、全人類の真の父母を立てて、その父母によってすべての人間が重生し、善の子女となることによって、神の創造本然の大家族の世界を復帰するところに、その目的があるという点である。これはとりもなおさず、キリスト教が、復帰摂理の目的を完成する中心的な宗教であるということを意味するのである。このように、現世に至っては、世界がキリスト教を中心として一つの文化圏を形成し、人類の真の父母であられるイエスと聖霊(前編第七章参照)を中心として、すべての人間が善の子女の立場に立つことにより、神の第二祝福復帰の現象を見せている。このような事実を見ても我々は現代が終末であるということを否定することができないのである。

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028

(三)第三祝福復帰の現象

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029

神の第三祝福はアダムとエバが完成して、被造世界に対する主管性をもつようになることを意味する。そして、被造世界に対する人間の主管性には、内外両面の主管性がある。人間は堕落によってこの両面の主管性を失ったのであるが、現代に至って、これが復帰されつつあるのを見て、現代が終末であるということを知ることができるのである。

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030

つぎに、外的主管性とは、科学による主管性を意味する。もし人間が完成して、被造世界に対する神の創造の心情と同一の心情をもって、被造世界を内的に主管できたならば、人間の霊感は高度に発達することができたはずであるから、科学の発達も、極めて短時日に最高度のものにまで達し得たはずであったのである。このようになって初めて、人間は被造物に対する外的な主管をなし得るのである。したがって、人間は早くから天体をはじめとして、自然界全体を完全に主管できるばかりでなく、科学の発達に基づく経済発展によって、極めて安楽な生活環境をもつくることができたはずである。しかし、人間は堕落によって心霊が暗くなり、被造物に対する内的な主管性を失って、動物のように、霊感の鈍い未開人に零落してしまったので、被造物に対する外的な主管性までも失うようになったのである。しかし、人間は神の復帰摂理によって、心霊が明るくなるに従い、被造物に対する内的な主管性が復帰されてきたので、それに伴い、被造物に対する外的な主管性も、漸次復帰されてきて、現代ともなると科学の発達も最高度に達し得たのである。そして、科学の発達に伴う経済発展によって、現代人は極度に安楽な生活環境をつくるようになった。このように、堕落人間が被造世界に対する主管性を復帰するに従い、神の第三祝福が復帰されていく現象を見るとき、我々は、現代が終末であることを否定することができないのである。

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031

終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れる。しばしば、このような人たちは、自分が再臨主であると考えて、正しい道を探していくことのできない場合が多いが、その理由はどこにあるのだろうか。本来、神は人間を創造されて、彼に被造世界を主管する主になれと祝福された(創一・28)。ところが、人間は堕落によって、このような神の祝福を成し遂げることができなかったのである。しかし、堕落人間が復帰摂理によって、長成期の完成級まで霊的に復帰されて、アダムとエバが堕落する直前の立場と同一の心霊基準に達すれば、神が彼らに被造世界の主になれと祝福なさった、その立場を復帰したという意味から、「あなたは主である」という啓示を下さるのである。

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032

しかし、神が彼らを実際に憎むか愛するかは、あくまでも彼ら自身の責任分担遂行のいかんによって左右される問題だったのである。事実、エサウはヤコブに素直に屈伏したので、憎しみを受ける立場から、ヤコブと同じく愛の祝福を受ける立場へ移ったのである。逆に、いかに愛を受けられる立場に立たせられたヤコブであっても、もし、彼が自分の責任分担を完遂できなかったならば、彼は神の愛を受けることができないのである。

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033

アダムが創造理想を完成した男性、すなわち生命の木となり、エバが創造理想を完成した女性、すなわち善悪を知る木となって、人類の真の父母となったならば、そのときに、神の三大祝福が完成され、地上天国は成就されたはずであった。しかし、彼らが堕落したので、反対に、地上地獄になってしまった。それゆえ、堕落人間を再び生み直してくださるために、イエスは、後のアダム(コリントⅠ一五・45)として、生命の木の使命をもって(黙二二・14)人類の真の父として来られたのである。このように考えてくると、ここに後のエバとして、善悪を知る木の使命をもった人類の真の母が(黙二二・17)、当然いなければならないということになる。これがすなわち、堕落した人間を、再び生んでくださる真の母として来られる聖霊なのである。

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034

元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。したがって、神の三大祝福完成による地上天国は、そのとき、既に完成されたはずであった。しかし、アダムとエバが堕落して、サタンを中心として四位基台を造成したので、サタンを中心とする三位一体となってしまった。ゆえに彼らの子孫もやはり、サタンを中心として三位一体を形成して、堕落した人間社会をつくってしまったのである。

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035

それゆえ、神はイエスと聖霊を、後のアダムと後のエバとして立て、人類の真の父母として立たしめることにより、堕落人間を重生させて、彼らもまた、神を中心とする三位一体をなすようにしなければならないのである。しかし、イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエスと聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。

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036

一方、アダムが創造目的を完成するために立てなければならなかった第二の条件は、彼が「実体基台」を造成することであった。アダムが神のみ言を信じ、それに従順に従って、その成長期間を完全に全うすることにより「信仰基台」を立てることができたならば、彼はその基台の上で神と一体となり、「実体基台」を造成することによって、創造本性を完成した、み言の「完成実体」となり得たはずであった(ヨハネ一・14)。アダムがこのような「完成実体」となったとき、初めて彼は、神の第一祝福であった個性完成者となることができたはずである。もし、アダムが堕落しなかったならば、彼は前述したとおりの経路によって創造目的を完成したはずであったから、堕落人間もまた「メシヤのための基台」を造成するためには、それと同じ経路をたどって、次に述べるような「信仰基台」を立て、その基台の上で、「実体基台」をつくらなければならないのである。

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037

第二に、神が創造された原理の世界を、サタンが先に占有したので、神に先立って、サタンが先に非原理的な立場からその原理型の世界をつくっていくようになった。そうして、元来、神は長子を立てて、長子にその嗣業 を継承させようとなさった原理的な基準があるので、サタンも、二番目のものよりも、最初のものに対する未練が一層大きかった。また事実サタンは、そのとき、既に被造世界を占有する立場にあったので、未練の一層大きかった長子カインを先に取ろうとした。したがって、神はサタンが未練をもって対応するカインよりも、アベルと対応することを選び給うたのである。  これに対する実例を聖書の中から探してみることにしよう。神はカインに向かって、「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています」(創四・7)と言われた。これから見て、カインはサタンと相対する立場に立たされたという事実を知ることができる。イスラエル民族がエジプトを去るとき、エジプトの民のみならず、家畜に至るまで、初子をことごとく撃った(出エ一二・29)。これは、それらがみなカインの立場として、サタンの対象であったからである。また、イスラエル民族がカナンの地に復帰したとき、次子アベルの立場であったレビびとの子孫のみが契約の箱を担いでいった(申命三一・25)。創世記二五章23節を見れば、神はまだ生まれる以前の母の腹の中にいる胎児のときから長子エサウを憎み、次子ヤコブを愛したという記録がある。これは、長子、次子という名分だけで、彼らは、既に各々カインとアベルの立場にあったからである。ヤコブが彼の孫エフライムとマナセを同時に祝福するときに、次子エフライムを優先的に祝福するために手を交差して祝福したのも(創四八・14)、これまたエフライムがアベルの立場にあったからである。このような原理によって、神とサタンを各々一人の主人として対応できる位置にアベルとカインを立てておいて、供え物をささげるようにされた(創四・3〜5)のである。

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038

「メシヤのための基台」は、「信仰基台」を蕩減復帰した基台の上で、「実体基台」を立てることによってつくられる。そして、献祭という観点から見れば、「信仰基台」は、「象徴献祭」を神のみ意にかなうようにささげることによって復帰され、「実体基台」は「実体献祭」を神のみ意にかなうようにささげることによってつくられるとも見ることができる。それでは、「象徴献祭」および「実体献祭」の意義とその目的は果たして何であるかということについて調べてみることにしよう。 神の創造目的である三大祝福は、まずアダムとエバが各々個性を完成して夫婦とならなければならないということであり、つぎに、子女を殖やして家庭をつくり、更に進んで彼らが万物を主管することによって成就されるようになっていた。しかし、堕落によってその三大祝福は達成されなかったので、これを復帰するためには、それと反対の経路に従って、まず、万物を復帰するための蕩減条件と、人間を復帰するための象徴的な蕩減条件とを同時に立てることができる「象徴献祭」をささげて、「信仰基台」を立てなければならない。つぎには、子女を復帰して、その上に、父母を復帰するための蕩減条件を、同時に立てることができる「実体献祭」をささげて、「実体基台」をつくって、「メシヤのための基台」を造成しなければならない。ゆえに、我々は「象徴献祭」の意義とその目的を二つに分けて考えることができる。既に、堕落論で述べたように、サタンが堕落人間を主管することによって、彼は人間が主管すべき万物世界までも主管するようになったのである。聖書に、万物が嘆息すると記録されている原因はここにある(ロマ八・22)。それゆえに、万物をもって「象徴献祭」をささげる第一の目的は、神の象徴的実体対象である万物を復帰するための蕩減条件を立てるところにある。

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039

ノアの家庭を中心とする復帰摂理において、「信仰基台」を復帰すべき中心人物はノアであった。ゆえに、神はアダムによって成し遂げようとして、成し遂げることのできなかったみ旨を、身代わりとして成就せしめるために、アダムから一六〇〇年を経て、十代目にノアを召命されたのであった。それゆえに、神は既にアダムに祝福された(創一・28)のと同じく、ノアに対しても、「生めよ、ふえよ」と祝福されたのである(創九・7)。このような意味において、ノアは第二の人間始祖となるのである。

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040

アブラハムは、ノアの身代わりであり、したがって、アダムの身代わりであるので、復帰したアダム型の人物であった。したがって、神はアダムとノアに祝福なさったように、アブラハムにも、子女を殖やして大いなる民族をつくり、祝福の基となれと、祝福なさったのである(創一二・2)。アブラハムは、このような祝福を受けたのちに、神の命令に服従して、ハランの住みなれた父親の家を離れ、妻サライと、甥ロト、そしてハランでもっていたすべての財産と人を連れて、カナンの地に行ったのである(創一二・4、5)。神は、このようなアブラハムの路程によって、将来、ヤコブとモーセがサタンの世界であるハランとエジプトから、各々、妻子と財物を取り、困難な環境を押しのけて、カナンの地へ復帰する際に必須のものとなる典型的な路程を指し示してくださったのである。そしてこの路程は、将来、イエスが来られて、サタン世界のすべての人間と万物世界とを、神の世界に復帰するに当たっての、典型的な路程を予示されたことにもなるのである(後編第二章第一節(二)参照)。

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041

それでは、アブラハムは、イサク献祭をいかにささげたのだろうか。アブラハムはその絶対的な信仰で、神のみ言に従い、祝福の子として受けたイサクを燔祭としてささげるため殺そうとしたとき、神は彼を殺すなと命令されて「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創二二・12)と言われた。

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042

第一に、ヤコブは長子の嗣業を個人的に復帰する争いで、勝利の条件を立てなければならなかった。サタンは、神が創造された被造世界を、長子の立場から占有しているので、神は、次子の立場から、その長子の嗣業を取り返してくる摂理をなさるのである。神が長子を憎んで次子を愛した理由はここにある(マラキ一・2、3)。そのため、長子の嗣業を復帰しなければならない使命をもって胎内から選ばれたヤコブは、次子の立場から、知恵を用いて、パンとレンズ豆のあつものを与えて、エサウから長子の嗣業を奪ったのであるが(創二五・34)、ヤコブは長子の嗣業を重んじてそれを復帰しようとしたので、神はイサクに彼を祝福させた(創二七・27)。これに反してエサウは、それをパンとレンズ豆のあつもので売ってしまう程度に軽んじたので、彼を祝福なさらなかったのである。

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043

これでエサウとヤコブは、神がアベルの献祭を受けられるときの、カインとアベルの立場を確立したので、彼らが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるには、エサウはヤコブを愛し、彼を仲保として立て、彼の主管を受ける立場で従順に屈伏し、祝福を受けたヤコブから善を受け継いで、善を繁殖する立場に立たなければならなかった。事実においても、エサウは、ヤコブがハランで二十一年間の苦役を終えて、天の側の妻子と財物とを得てカナンへ帰ってきたとき、彼を愛し、歓迎したので(創三三・4)、彼らは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることができたのである。このように、彼らは、アダムの家庭のカインとアベル、ノアの家庭のセムとハムが、「実体献祭」に失敗したのを蕩減復帰することができたのである。このようにエサウとヤコブが「実体献祭」に成功した結果、既に、アダムの家庭から「実体基台」を蕩減復帰するために続いてきた縦的な歴史路程を、アブラハムを中心とする復帰摂理路程の中で、イサクの家庭で初めて、これを横的に蕩減復帰するようになったのである。

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044

以上のように、イサクを中心とする摂理は、また、ヤコブを中心とする摂理路程へと延長されていった。しかし、ちょうど、アブラハムとイサクが、その個体は、各々異なるが、み旨を中心として見るときには、一体であったように、ヤコブはイサクの家庭を中心として、「メシヤのための基台」を立てるべき「実体基台」の中心人物として、アブラハムの犯した罪を担当して、将来、「メシヤのための民族的な基台」を立てて、イサクの目的を、民族的に成就すべき蕩減路程を出発したので、アブラハムとイサクとヤコブとは、お互いに、その個体は異なるが、み旨を中心にして見れば、みな一体であったのである。したがって、ヤコブの成功は、すなわち、イサクの成功であり、イサクの成功は、すなわち、アブラハムの成功になるのである。ゆえに、アブラハムを中心とした復帰摂理は、イサクとヤコブに延長されたけれども、み旨を中心として見れば、延長されずに、アブラハム一代で完成されたのと等しい結果となるのである。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エ三・6)と言われたみ言は、正に、このような摂理路程に立脚してみるとき、彼らは三代でありながらも、み旨から見れば、一つの目的を共同して完成した祖先たちであるので、一代と等しいともいえるのである。事実、神は、ヤコブの家庭をしてサタン世界であるエジプトに入らしめて、四〇〇年間の苦役の道を歩ませながら、既に、アブラハムに祝福なさったみ言のように、選民として立てて、再び、カナンの地へ帰ってくるようになさったのち、「メシヤのための民族的な基台」をつくらせて、この基台の上に、メシヤを送って、復帰摂理を完遂しようとされたのである。

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045

③ 人間は堕落により、その死体までもサタンの侵入を受けたのであった。ところがヤコブは、祝福を受けて、聖別された体であったから、彼の死体も、サタンと闘って分立したという条件を立てるため、その死体に、四十日間、防腐剤を塗ったのである(創五〇・3)。したがって、この路程を見本として歩いたモーセも、その死体をもってサタンと闘ったのであり(ユダ9)、またイエスも、その死体をめぐって問題が起きたのであった(マタイ二八・12、13)。

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046

⑥ エバの犯罪が罪の根をつくり、その息子カインがアベルを殺すことによって、その実を結ぶようになった。このように、母と子によってサタンが侵入し、罪の実を結んだのであるから、蕩減復帰の原則によって、母と子が、サタンを分立しなければならないのである。したがって、ヤコブが祝福を受けて、サタンを分立し得たのも、その母親の積極的な協助があったればこそである(創二七・43)。モーセもまた、その母親の協助がなかったならば、彼が死地から脱して、神の目的のために仕えることはできなかったはずである(出エ二・2)。そして、イエスのときにも、また、彼を殺そうとしたヘロデ王を避け、彼を連れてエジプトに避難するという、その母親の協助があったのである(マタイニ・13)。

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047

⑦ 復帰摂理の目的を達成する中心人物は、サタンの世界から神の世界へと復帰する路程を歩まなければならない。それゆえに、ヤコブはサタンの世界であるハランからカナンへ復帰する路程を歩いたのであり(創三一〜三三)、モーセは、サタン世界であるエジプトから、祝福の地カナンに復帰する路程を歩いた(出エ三・8)。そしてまたイエスも、この路程を歩まれるために、生まれてすぐエジプトに避難したのち、再び国に戻るという過程を経なければならなかったのである(マタイ二・13)。

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048

初めに神は人間を創造し給い、その個性の完成、子女の繁殖、および被造世界に対する主管など、三つの祝福をされた(創一・28)。それゆえに、人間がこれを完成することが、すなわち、神の創造目的なのである。ところが、サタンが人間を堕落させて、この三つの祝福を成就することができなかったために、神の創造目的は達成されなかったのである。それに対してイエスは神が約束されたこの三つの祝福を復帰することによって、神の創造目的を成就するために来られたのであるから、サタンは祝福復帰への道をふさぐため、その三つの試練をもって、創造目的が達成できないように妨げようとしたのであった。

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049

ところで、モーセが石板の根である磐石を二度打ったことによって、その石は、サタンの所有となったのである。このようにサタンのものとなったその石は、まさしく、モーセが失ったその磐石(岩)であり、また、その石板でもあったために、その石は結局、サタンの試練を受けているイエス自身を象徴するものであった。これは、黙示録二章17節に、石をキリストとして象徴し、またコリントⅠ一〇章4節に「岩はキリストにほかならない」と記録されているのを見ても、明らかに理解することができるのである。それゆえに、サタンの最初の試練に応じたイエスの答えは、要するに、私が今いくらひどい飢えの中におかれているとしても、肉身を生かすパンが問題ではなく、イエス自身がサタンから試練を受けている立場を勝利して、すべての人類の霊人体を生かすことができる、神のみ言の糧とならなければならないという意味であった。したがって、この試練は、イエスが洗礼ヨハネの立場でもって試練を受けて勝利することにより、個性を完成したメシヤの立場を取り戻す試練であった。このような原理的立場からみ旨に対しておられたイエスの言行に、サタンは敗北したのであった。そして、イエスがこの最初の試練に勝利して、個性を復帰することができる条件を立てられることによって、神の第一祝福の復帰の基台をつくられたのである。

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050

これに対してイエスは、「主なるあなたの神を試みてはならない」(マタイ四・7)と答えられた。元来、天使は、創造本然の人間の主管を受けるように創造されたために、堕落した天使は、当然イエスの主管を受けなければならないのである。それにもかかわらず、天使が、イエスの代わりに神殿主管者の立場に立とうとすることは、非原理的な行動であるということはいうまでもない。それゆえに、このような非原理的な行動をもって、原理的な摂理をなさる神の体であられるイエスを試練することによって、神を試練する立場に立つなどということはあり得べからざることなのである。そればかりでなく、イエスは、既に、第一次の試練に勝利し、個性を復帰した実体神殿として、神殿の主人公の立場を確立されたのであったから、サタンの試練を受けるべき何らの条件もないので、今はイエス自身を試練しないで退けという意味であった。このようにして、第二の試練に勝利することによって、本神殿であり、新郎であり、また人類の真の親として来られたイエスは、すべての信徒たちを、分神殿と新婦、そして子女の立場に、復帰することができる条件を立てて、神の第二祝福の復帰の基台を造成されたのであった。

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051

これに対してイエスは、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(マタイ四・10)と答えられた。天使は、もとより仕える霊(ヘブル一・14)であって、自己を創造された神を崇拝し、神に仕えるようになっていたのである。したがって、堕落した天使であるサタンも、彼を拝し彼に仕えるのが原理であるために、サタンは当然、創造主、神の体として現れたイエスにも屈伏して、彼を拝し彼に仕えるのが原理であるとイエスは答えられたのであった。しかもイエスは、既に二度の試練に勝利し、神の第一、第二の祝福を復帰し得る基台を造成しておられたので、その基台の上に神の第三祝福を復帰して、万物世界を主管するのが当然であったから、既に勝利の基台の上に立っている万物世界に対しては、それ以上試練を受けるべき余地がないという意味をもって原理的に答えられたのである。このように、イエスは第三の試練にも勝利され、被造世界に対する主管性を復帰し得る条件を立てることによって、神の第三祝福に対する復帰の基台を造成されたのであった。

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052

第二にイエスは、洗礼ヨハネの立場からメシヤの立場に立つための「信仰基台」を造成したので、神の三大祝福を成就して、四位基台を蕩減復帰することができる条件を立てられたのである。したがって、イエスは献祭に成功した実体であられると同時に、また、石板、幕屋、契約の箱、磐石、神殿の実体としても、立つことができるようになったのであった。

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053

アブラハムを中心とする復帰摂理において、彼がハランから出発したのち、ヤコブがパンとレンズ豆のあつもので、エサウから長子の嗣業を得るまでの一二〇年、そのときからヤコブがイサクから長子の嗣業を受け継ぐ祝福を受けて、ハランへ行く途中、神の祝福を受けるまで(創二八・10-14)の四十年、また、そのときからハランにおける苦役を終えて、妻子と財物を得てカナンへ帰ってくるまでの二十一年(創三一・41)、ヤコブがカナンに帰ったのち、売られていったヨセフを訪ねて、エジプトへ入るまでの四十年などは、みな「信仰基台」を復帰するための縦からなる横的蕩減期間である。このようにして、縦からなる横的蕩減復帰期間の年数が決定されていったのである。

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054

この時代は、象徴的同時性の時代のうち、ヤコブがエサウからパンとレンズ豆のあつもので、長子の嗣業を奪う条件を立てたのち、再びイサクの祝福と、神の祝福を受けて(創二八・13)、ハランの地に入るまでの四十年間を、形象的な同時性として蕩減復帰する時代であった。

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055

そして、この時代は、象徴的同時性の時代のうち、ヤコブがイサクから長子の嗣業に対する祝福を受けたのち、彼を殺そうとしたエサウを避けてハランの地に行って、サタンの側の人物であるラバンの要求により、レアを妻にめとるための七年間と、ラケルを妻にめとるための七年間、また、財物を得て、カナンに帰ってくるまでの七年間を合わせた二十一年間(創三一・41)を、形象的な同時性として、蕩減復帰する時代であったのである。

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056

統一王国時代において、「信仰基台」を復帰する中心人物は、預言者を通じて示される神のみ言を実現していく役割をもった国王であった。預言者や、祭司長は、神のみ言を代理する者であるから、その時代におけるアベルの立場に立つようになる。しかし、復帰摂理路程において、彼は、あくまでも霊界を代理して、天使長の立場から実体の世界を復帰していかなければならないので、国王が立ち得る霊的な基台を準備し、王を祝福して立たせたのちには、彼の前でカインの立場に立たなければならないのである。したがって、国王は、預言者を通じて下されるみ言によって国家を統治しなければならないのであり、また、預言者は、一人の国民の立場で国王に従わなければならないのである。それゆえに、この時代において、「信仰基台」を復帰する中心人物は、国王であった。事実、アブラハムから八〇〇年が経過したときに、預言者サムエルは、神の命を受けてサウルに油を注いで祝福することにより、彼を第一イスラエル選民の最初の王として立てたのである(サムエル上八・19-22、同一〇・1-24)。サウル王が、士師四〇〇年の基台の上で、彼の在位四十年を、神のみ旨にかなうように立てられたならば、彼は、エジプト苦役四〇〇年とモーセのパロ宮中四十年とを、共に蕩減復帰した立場に立つことができ、したがって彼は、「四十日サタン分立基台」の上で、「信仰基台」を立てることができたはずであった。すなわち、サウル王が、この基台の上で、メシヤの形象体である神殿を建設し、それを信奉したならば、彼は、モーセが第一次民族的カナン復帰に失敗しないで成功し、神殿を建設してそれを信奉したのと同様の立場に立つことができたのである。そして、イスラエルの選民たちが、サウル王を中心とするその「信仰基台」の上で、神殿を信奉していくこの国王を絶対的に信じ従ったならば、彼らは「実体基台」を造成して「メシヤのための基台」をつくり得たはずであった。ところが、サウル王は、預言者サムエルを通して与えられた、神の命令に逆らったので(サムエル上一五・1-23)、神殿を建設することができなかったのである。このように、神殿を建設することができなかったサウル王は、すなわち、第一次民族的カナン復帰に失敗したモーセのような立場におかれたのであった。そして、サウル王を中心とする復帰摂理も、モーセのときと同じように、ダビデ王の四十年を経て、ソロモン王の四十年に至り、初めてその「信仰基台」が造成されて神殿を建設することができたのである。

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057

キリスト王国時代においては、統一王国時代のすべてのものを、実体的な同時性をもって蕩減復帰しなければならなかったので、この時代の「信仰基台」を蕩減復帰する中心人物は、修道院と法王とのキリスト教理念を実現しなければならない国王であった。したがって、法王は、統一王国時代における預言者の目的を信奉する祭司長の立場におかれていたので、彼は、国王がキリスト教理想を実現していくことのできる霊的な基台を準備し、彼を祝福して、王として立てたのちには、一人の国民の立場から、彼は従わなければならなかったし、また、国王は、法王の理想を奉じて、国民を統治しなければならなかったのである。事実上、このような摂理の目的のために、法王レオ三世は、紀元八〇〇年に、チャールズ大帝を祝福して、金の王冠をかぶらせることにより、彼を第二イスラエル選民の最初の王として立てたのであった。

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058

チャールズ大帝は、士師時代四〇〇年を実体的な同時性をもって蕩減復帰した、教区長制キリスト教会時代四〇〇年の基台の上に立っていたので、サウル王のように、「四十日サタン分立基台」の上に立つようになったのであった。したがって、チャールズ大帝が、この基台の上で、キリストのみ言を信奉し、キリスト教理想を実現していったならば、この時代の「信仰基台」は造成されるようになっていたのである。事実、チャールズ大帝は、法王から祝福を受け、王位に上ることによって、この基台をつくったのであった。それゆえに、当時の第二イスラエルが、このような立場にいた国王を、絶対的に信じ、彼に従ったならば、そのときに「実体基台」は立てられたはずであり、したがって「再臨されるメシヤのための基台」も、成就されるはずであったのである。

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059

つぎに、宗教面において、キリスト教封建社会のあとに続いて現れたキリスト教君主社会は、「メシヤのための霊的基台」の上で法王を中心としてたてられた国土のない霊的な王国社会であった。そして、法王レオ三世が、紀元八〇〇年にチャールズ大帝を祝福して、彼に皇帝の冠 を授与し、天的な嗣業を相続させることによって、法王を中心としてつくられた霊的な王国と、政治的に形成されたフランク王国とが一つになり、キリスト王国をつくったのである。

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060

キリスト王国時代は、旧約時代の統一王国時代と同時性の時代である。このように、封建時代のあとに続いて王国時代がきたということは、封建社会を統合することにより、より大きい天の側の主権と、その民と、版図とを形成するためであったのである。したがって、既に論じたように、天使長の立場から実体世界を復帰するための基台を準備してきた法王は、国王を祝福したのちは、カインの立場で彼に従い、また、国王は、法王の理念に従って、メシヤ理想を実現するための政治を施し、キリスト王国を完全に神のみ旨にかなうように立て得たならば、この時代が、すなわち、メシヤを迎えることができる終末となるはずであった。このようにして、そのときまで互いに妥協することができず、衝突しあってきた宗教と科学とを、一つの課題として完全に解決することができる真理が現れたならば、そのときに、宗教と政治と経済とが、一つの理念を中心として、完全に一致した方向に向かって発展することにより、その基台の上で「再臨されるメシヤのための基台」がつくられるはずだったのである。それゆえに、キリスト王国時代がくることにより、封建時代は、そのときに、完全に終わってしまわなければならなかったのである。ところが、法王や国王たちが、みな、神のみ旨に反するようになったので、チャールズ大帝の本来の理想を実現することができなくなり、そのため頑強な封建制度の基礎は揺るがず、その後においても、長い間にわたって存続したのであった。したがって、宗教と政治と経済とは依然として互いに分立されたままとなり、その結果、法王を中心とする霊的な王国と、国王を中心とする実体的な王国も、依然として分立されたまま、対立して調和し得ない立場をとるようになったのである。

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061

神の創造理想は、単に罪のない社会をつくることだけで成し遂げられるのではない。人間は、万物を主管せよと言われた神の祝福のみ言どおり(創一・28)、被造世界に秘められている原理を探求し、科学を発達させて、幸福な社会環境をつくっていかなければならないのである。既に前編で論じたように、堕落人間の霊肉両面の無知に対する克服は、宗教と科学が各々担当して理想社会を復帰してきたので、歴史の終末には、霊的な無知を完全に除去できるみ言が出なければならないとともに、肉的な無知を完全に除去できる科学が発達して、理想社会を成し遂げ得る前段階の科学社会を建設しなければならないのである。このような神の摂理から見ても英国の産業革命は、どこまでも理想社会の生活環境を復帰するための摂理から起こったものだ、ということを知ることができる。

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062

第二に、神の三大祝福を成就した型の世界を、サタンが先に非原理的につくってきたので、これを復帰する世界的な蕩減条件を立てるために世界大戦が起こるのである。神は人間を創造されて、個性を完成すること、子女を繁殖すること、そして、被造世界を主管することなどの三大祝福を人間に与えた(創一・28)。したがって、人間はこの祝福を成就して地上天国を実現しなければならなかったのである。神は人間を創造なさり、このような祝福をされたので、その人間が堕落したからといって、この祝福を破棄することはできない。それゆえに、堕落した人間がサタンを中心として、その祝福された型の非原理世界を先につくっていくのを神は許さないわけにはいかないのである。したがって、人類歴史の終末には、サタンを中心とする個性の完成、サタンを中心とする子女の繁殖、サタンを中心とする被造世界の主管など、三大祝福完成型の非原理世界をつくるようになる。ゆえに神の三大祝福を復帰する世界的な蕩減条件を立てるためには、サタンを中心とするこのような三大祝福完成型の非原理世界を、蘇生、長成、完成の三段階にわたって打つ三次の世界大戦が起こらざるを得ないのである。

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063

復帰摂理から見て、第一次世界大戦が起こるようになった内的な原因の第一は、神の三大祝福を復帰する蘇生的な蕩減条件を世界的に立てようとするところにあった。既に明らかにしたように、サタンは、神がアダムを中心として成し遂げようとした世界と類似した型の世界を先につくってきたので、歴史の終末に至っては、一時は必ずサタン側のアダム型の人物を中心として、三大祝福の蘇生級完成型の非原理世界が現れるようになる。したがって、天の側ではこの世界を打って、神を中心としてその祝福を完成した原理世界を復帰する蘇生的な蕩減条件を、世界的に探して立てなければならない。このような目的のため、第一次世界大戦が起こるようになったのである。

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064

ゆえに、第一次世界大戦を挑発したドイツのカイゼル(ウイリアム二世)は、サタン側のアダムの蘇生級個性完成型の人物として、汎ゲルマン主義を主唱して子女繁殖の型をつくり、世界制覇の政策を立てて万物主管の型を成し遂げ、サタンを中心とする三大祝福の蘇生級完成型の非原理世界を達成したのである。したがって、天の側がこのようなサタン側を打って勝利して、神を中心とする三大祝福を完成した世界を復帰する蘇生的な蕩減条件を世界的に立てるために、第一次世界大戦は起こらざるを得なかったのである。

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065

第二に、イエスに対するサタンの第一次試練を、天の側の地上人をして世界的に越えさせるために、第一次世界大戦がなければならない。ゆえに、イエスが受けた試練を中心として見れば、天の側では第一次大戦に勝利し神の第一祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立てなければならなかった。なぜならば、イエスが荒野で第一次試練に勝利して、石で表示されたイエス自身を取り戻して個性復帰の基台を造成したように、天の側では第一次世界大戦に勝利することによって、サタン側の世界とその中心を滅ぼし、その反面、天の側の世界を立てて、その中心たる再臨主の誕生を迎え、個性復帰のための基台をつくらなければならなかったからである。

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066

第一次世界大戦で天の側が勝利することにより、神の三大祝福を世界的に復帰するための蘇生的な蕩減条件を立てるようになった。イエスに対するサタンの試練を世界的に越える立場から見れば、神の第一祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立て、ここで民主主義が蘇生的な勝利を得るようになり、天の側の主権復帰の蘇生的な基台を造成したのである。また、サタン側の世界と、その世界の王として君臨したカイゼルが敗北した反面に、天の側の世界の蘇生的な勝利の基台が立てられ、天の側の世界の王として来られる再臨主の誕生される基台が造成されたのである。またこれに続いて、サタン側の再臨主の象徴型であるスターリンを中心とする共産世界がつくられるようになった。なぜならば再臨主は、共生共栄共義主義の地上天国理想をもって降臨される方であるので、サタン側では天の側のこのような摂理をそれに先んじて達成するために、サタン側の再臨主型の人物を中心として地上天国型の世界を成し遂げようとしたからであった。ゆえに、第一次世界大戦においては、天の側の勝利によってメシヤ再降臨の基台が造成され、そのときから再臨摂理の蘇生期が始まったのである。

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067

詳細は次の項で論述するが、第二次世界大戦は、イエスを中心として成し遂げようとしながらできなかった神の三大祝福を復帰する長成的な蕩減条件を、世界的に探し立てるために起こったのである。ところが、元来神の三大祝福が完成されなかったのは、アダム、エバ、天使長の三存在が堕落してしまったからであった。ゆえに、三大祝福の復帰にも、それらを蕩減復帰するための三存在の関与が必要であったので、後のアダムとして来られたイエスと、エバの神性をもって来られた聖霊(前編第七章第四節(一))と天使の三存在が一つになって初めて霊的救いの摂理を成し遂げ、神の三大祝福を霊的に復帰することができたのである。したがって、イエスを中心とする三大祝福を復帰するための、長成的な蕩減条件を、世界的に立てるべき第二次世界大戦も、アダム、エバ、天使を象徴する天の側の国家が中心となり、同一の型を備えたサタン側の国家と戦って勝利し、それを蕩減復帰する条件を立てなければならない。ゆえに、これを知っているサタンは、この摂理に先立って、サタン側のアダム、エバ、天使型の国家を先に団結させ、天の側のそのような型の国々に向かって攻勢をかけさせたのである。

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068

復帰摂理から見て、第二次世界大戦が起こるようになった内的な原因の第一は、神の三大祝福を復帰する長成的な蕩減条件を世界的に立てようとするところにあった。神はアダムが堕落したことにより、第二次に、後のアダムであるイエスを遣わし、彼を中心として神の三大祝福を完成した世界を復帰なさろうとしたのである。しかしイエスはユダヤ人の不信により十字架で亡くなられたので、これはただ霊的にのみ成就されるにとどまった。またサタンは、イエスが成し遂げようとされた世界と類似した型の世界を先につくっていこうとするので、歴史の終末に至っては、必ずサタン側のイエス型の人物を中心として、三大祝福の長成級完成型の非原理世界がつくられるのである。したがって、この世界を打って、神を中心としてその祝福を完成した原理世界へ復帰する、長成的な蕩減条件を世界的に立てなければならない。このような目的のために第二次世界大戦が起こるようになったのである。

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069

このサタン側のイエス型の人物がすなわちヒットラーであった。ゆえにヒットラーは、その思想とか、独身生活とか、彼の悲惨な死とか、また行方不明になった彼の死体などすべての面において、み旨とは方向が反対であるというだけで、その他の点においては、イエスと類似する面を多くもっていたのである。したがって、第二次世界大戦を挑発したドイツのヒットラーは、サタン側のアダムの長成級個性完成型の人物として、汎ゲルマン主義を強化することによって子女繁殖の型を成し遂げ、世界制覇の政策を樹立して万物主管の型を実現し、サタンを中心とする三大祝福の長成級完成型の非原理世界をつくったのである。ここにおいて天の側は、第二次世界大戦に勝利することによって、三大祝福を完成した世界を復帰する長成的な蕩減条件を世界的に立てなければならなかったのである。

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070

第二に、イエスに対するサタンの第二の試練を、天の側の地上人をして世界的に越えさせるために第二次世界大戦がくるようになる。ゆえに、イエスが受けた試練を中心として見れば、天の側では第二次大戦で勝利して、神の第二祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立てなければならなかった。なぜならば、イエスが荒野で第二の試練に勝利して子女復帰の基台を造成されたように、天の側の世界が第二次大戦に勝利することによって、民主主義の長成的な基台を造成し、天の側の人間たちが天の世界的な基盤をつくらなければならなかったからである。

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071

第二次世界大戦が天の側の勝利に終わったので、神の三大祝福を世界的に復帰するための長成的な蕩減条件を立てることができた。イエスに対するサタンの試練を世界的に越える立場から見れば、神の第二祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立て、また民主主義世界が長成的な基盤をつくって、主権復帰の長成的な基台を造成するようになったのである。

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072

神は、元来、人間始祖を創造されて、彼に世界を主管せよと祝福されたので(創一・28)、サタンが堕落した人間を中心として先にこの祝福を完成した型の非原理世界をつくっていくのを許さなければならなかった。その反面、神は復帰摂理によってそのあとについていきながら、それを天の側へ奪ってくる摂理をしてこられたことは、我々がよく知っている事実である。ゆえに、人類歴史の終末には、サタン側も天の側もみな世界を主管するところまで行かなければならないので、民主と共産の二つの世界が両立するようになる。そして、この二つの世界の最終的な分立と統合のために世界大戦が起こるようになるのである。このように、第一次、第二次の大戦は、世界を民主と共産の二つの世界に分立するための戦いであり、このつぎには、この分立された二つの世界を統一するための戦いがなければならないが、これがすなわち第三次世界大戦なのである。第三次世界大戦は必ずなければならないが、その戦いには二つの道がある。

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073

それでは、復帰摂理から見て、第三次世界大戦が起こるようになる内的な原因は何だろうか。第一に、神の三大祝福を復帰する完成的な蕩減条件を世界的に立てるためである。ユダヤ人たちの不信仰によって、イエスを中心とする復帰摂理は結局霊的に成し遂げられただけであったので、イエスは再び地上に再臨して神の三大祝福を完成した世界を霊肉共に復帰なさらなければならない。ゆえに、サタンはまた、イエスが再臨されて達成すべき世界と類似した型の非原理世界を先につくっていくようになる。したがって、歴史の終末には、必ずサタン側の再臨主型の人物を中心として三大祝福を復帰した型の非原理世界がつくられるようになるのである。ゆえに、天の側では、サタンを中心とする世界を打って、神を中心として三大祝福を完成した世界を復帰する完成的な蕩減条件を世界的に立てなければならない。このような目的のために、第三次世界大戦が起こらなければならなくなるのである。

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074

そのサタン側の再臨主型の人物が正にスターリンであった。したがって、スターリンはサタン側の個性完成型の人物として民主世界に対抗し、農漁民、労働者の大同団結を主唱して子女繁殖の型を成し遂げ、世界赤化の政策を樹立して万物主管の型を実現し、三大祝福を完成した型の共産世界をつくったのである。ゆえに、共産主義世界は、将来来たるべき神を中心とする共生共栄共義主義世界を、サタンが先に成し遂げた、非原理世界であるということを我々は知らなければならないのである。

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075

第二に、イエスに対するサタンの第三次試練を、天の側の地上人をして世界的に越えさせるために第三次大戦がくるようになる。ゆえに、イエスが受けた試練を中心として見れば、天の側では第三次大戦で勝利することによって、神の第三祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立てなければならない。なぜなら、イエスが荒野で第三次試練に勝利して万物に対する主管性復帰の基台を造成したように、天の側が第三次大戦で勝利することによって、被造世界全体に対する人間の主管性を復帰しなければならないからである。

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076

創造原理において詳しく述べたように、神は無形、有形の二つの世界を創造されたのち、その祝福のみ言のとおりに、二つの世界を主管させるために、人間を霊人体と肉身との二つの部分をもって創造されたのであった。しかしながら、アダムが堕落し、人間はこの二つの世界の主管者として立つことができなくなったので、主管者を失った被造物は嘆息しながら、自分たちを主管してくれる神の子たちが現れることを待ち望むようになったのである(ロマ八・19-22)。それゆえに、イエスは、完成されたアダムの位置において、この二つの世界の完全な主管者として来られ(コリントⅠ一五・27)、あらゆる信徒たちを御自分に接がせ(ロマ一一・17)、一体とならしめることによって、彼らをもみな被造世界の主管者として立たしめようとされたのである。そうであるのに、ユダヤ民族がイエスに逆らうようになったので、彼らと全人類とを神の前に復帰させるための代贖の条件として、イエスの体をサタンに引き渡され、その肉身はサタンの侵入を受けるようになったのである。したがって、肉的な救いは成就されず、後日再臨されて、それを成就すると約束されてから、この世を去られたのであった(前編第四章第一節(四))。それゆえに、今まで地上において霊肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主管することによって、それらを一つに和動し得た人間は、一人もいなかったのである。したがって、このような基準の完成実体として再臨されるイエスは、霊体であってはならないのである。初臨のときと同様、霊肉共に完成した存在として来られ、全人類を霊肉併せて彼に接がせて、一つの肢体となるようにすることによって(ロマ一一・17)、彼らが霊肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主管するようになさしめなくてはならないのである。

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077

神は、アダムに被造世界を主管するようにと祝福されたので、サタンが堕落したアダムとその子孫たちを先に立たせて、その祝福型の非原理世界を先につくっていくことを許さないわけにはいかなくなったのである。その結果、神はそのあとを追いながらこの世界を天の側に復帰してこられたので、歴史の終末に至れば、この世界は、必然的に民主と共産の二つの世界に分かれるようになるということは、前に述べたとおりである。ところで、イエスは、堕落世界を創造本然の世界に復帰されるために再臨されるのであるから、まず再臨されるはずの国を中心として、共産世界を天の側に復帰するための摂理をなさるということは確かである。それゆえ、イエスが再臨される韓国は神が最も愛される一線であると同時に、サタンが最も憎む一線ともなるので、民主と共産の二つの勢力がここで互いに衝突しあうようになるのであり、この衝突する一線がすなわち三十八度線である。すなわち、韓国の三十八度線はこのような復帰摂理によって形成されたものである。

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